2016年11月27日日曜日

ディスレクシアにとって「好き」が一番大事だと思う、私なりの考え。

健常者であっても「字を頑張ったら褒められる時期」は小学校入学あたりで
終わっただろうと、私は予想しています。昔から周囲を見て思っていましたが
普通の人でも「字で褒められる場面」って、あまりない気がします。
もちろん、国語の授業で音読が褒められ、読む仕事に関心を持つ経験がある人などもいるでしょうし、
習字が上手な子や字が綺麗だと褒められることはあり、
私が見て来た景色で少ないだけで、意外と多いことかもしれないですけど。

それは当たり前にできることだから、が正直な所かもしれません。
「褒めるほどのことじゃない」と。叱られも褒められもしない人のが多そうです。
ディスレクシアは、普通の人よりも強い気持ちを持って、自分で気持ちを保ちながら
字を頑張っていかないといけません。時間的にも気力的にも。
努力の日々でも褒めはなく、できなさが際立つため叱られるのが日常だと思う。
これは日本の文化ですかね。欠点なくそう運動みたいな風習は。
自分的に(これは相当がんばったぞ)と思っていても、周囲からは
「やっと当たり前のことができたのか。さっさと次にいきなさい」という感じもあり
努力自体が、軽んじて扱われがち。

てか苦労がない人ほど叱る行動には悪気も邪気も一切感じなくて余計苦しい。
きっと偏見よりも手前にいるんです。こういうのは家族でも他人でも関係なく
「???」って言い切る人はそういう体感で生きて来ただけだと思える。
面白いくらい通じないんです。残酷かよってくらい。
ディスレクシアの周知のなさが罪と理解することにしてます。
罪を憎んで人を憎まず、みたいなことだと思って独特の寂しさ?は納得させてます。
うちの家族は自分のできなさを真面目に心配してくれたからこそ嫌いになれなかったし
私もカミングアウトを頑張れた感じはあります。


++++
当事者が褒め言葉に飢えているのは、本当だと思います。
字への頑張り自体の労いにも、飢えてるかもしれないです。
私は飢えてます。趣味のお知り合いの方に労いの言葉をもらうと
すぐに涙が出るくらいなので、きっとその程度には飢えてる。

小学校入学してすぐ自覚できるのは、重度な当事者だと思ってます。
(外見からつまづきがわかりやすかどうかは別)
私は、漢字が目で意味理解できたために、小4〜中3は当事者自覚が薄れていました。
でも小1〜3と高校の両方で、独特の違和感を感じていて、しかもこの時期の授業記憶は
ほぼ残っていません。高校のクラスは馴染めなくて、私も覚える気がなかったのもある。
いつからか私が自分から声かけて関わらないと、いないものとして扱われる
(並ぶとき、自分で声かけないとスペース空けてくれないとか)雰囲気を
クラス女子ほぼ全員から感じた時期もあるけど、
私としては授業を聞いても理解できないこと・自分が教科書が読めなくなった混乱で
精神的に一杯一杯で、読み書きに比べたら小さいことに思えました。
「女子の排除のやり方?」と考えがよぎることは、なかったわけじゃないです。
でも自分の考えてることがわかりにくいのはあるらしいし
自分のせい程度に思ってました。親からみても謎みたいだし仕方ないよなと。
毎回自分から「ちょっといい?」と声かけてました。でも当時のクラスメイトとは
街ですれ違って声かけられたとしても私が忘れてますね。
そのクラスでは一人だけ、深く仲良くしてくれた女の子はいましたから
勉強と気持ちで内心かなり助けてもらってました。
部活動は楽しくて、美術部メンバーと美術室の雰囲気のが記憶は鮮明でよく覚えてます。
部活と部活の友人に会うために高校行ってました(またこれ系の理由かww)

++++
ディスレクシアが自分で文字や言葉を勉強する気にならなければ意味がないと
常々思う。モチベーションだけが大事と言えそう。これを大げさとは、私は思わない。
「下手だけど言葉が好きでいること」とか「うまくできないけど興味はあるんだ」と
いう興味とか好きが最重要。好きとか夢みたいな気持ちは大事だと思う。
得意はその後の話です、個人的にはね。
これは一体なぜだろう?と自分なりに考えてみました。

「字ができる」ということが世間的に賞賛・尊敬されるスキルであったら
こんなに深刻で、こじれた精神問題や悲惨な状況にはならないと思う。
当事者の独特の枯渇感って、得意を極める系の部類とは体感的に全く違う。
当たり前の日常を当たり前にこなせる人間生活のためのスキル「字」に
大きくつまづいてる。
健常者・ディスレクシア問わず、字の努力には「褒めがないのが当たり前」と思ってる。
褒めをあてにできないと思わないと、精神的に疲れるんですよね。
褒めを期待しても後が辛いだけで「頑張ってるんだよ〜」をわざわざ言うのは
結果が出せない自分をよく知ってたから墓穴を掘るだけで
(じゃあなんでできないんだ!で終わる)非常にリスキーだと思ってました。
カミングアウトの利点が一切見えないから、話すこと自体に消極的だったんです。


ディスレクシアに字を嫌いにさせたら、成績は簡単に下げれる。
もっと言うと「ディスレクシアである自分にうんざりさせたらアウト」だろうし、
「字は好きでも得意でもないがそんな自分を好きなら鈍足でも勉強はできる」とも思う。
親御さんだって、だれに褒められなくとも字の努力ができてほしいのでしょう?
興味や好きの気持ちで、字と向き合うのは自然なことと思う。
自分のため字を頑張れるよう、興味や好きの力を借りれば素敵な勉強時間になると思う。
ディスレクシアだからこそ、終わらない戦いのような「字」との長い付き合いで
自発的・友好的であることに越したことはないかなと。
共感しなくていいけど、努力してる心意気を汲んであげることはお勧めしたいかな。



+++
追記。
上記は私(隠れディスレクシア)の経験に基づいた一つの考えにすぎないです。漢字書けない等で悩む当事者とは状況が違いますし、許せない感情になることもありえます。私はディスレクシア自覚が中途半端で変に進学できて挫折もした。「バカなのか出来るのか、よくわからない自分がうっとうしく面倒臭い」ので、自分を奮い立たせる意味の自傷行為が多かった。
当事者の言葉が載っている本(怠けてなんかない)は、強い感情が自分だけじゃないと知って、安心と共感をもらったんですが内容は壮絶。隠れディスレクシアの親には馴染まないと感じますが、当事者が読むと有意義かもしれません。
ディスレクシア自覚を進めることが治癒行為になってます。

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