2017年3月28日火曜日

新しい波!

ディスレクシア関連の新しい漫画が発表されています!応援応援。

「うちの子は字が書けない 〜発達性読み書き障害の息子がいます〜」

漫画家さんの息子さんが当事者さんだそうです(読めるけど書けない・書くのが遅い系)。本業の漫画家さんによる、初のエッセイ漫画だそう。書けない系の当事者さんにはよくある…周囲の一部の大人たち(このエッセイ作者であるお母様と、2話に出る教頭先生など)が、周りの子になくてフユくんにある「???」に気づいていくようです。
杉本亜未先生のファンタジウムに続いて、素敵な作品が増えてくれましたよ!わーい!おすすめ。



…記事はこれ以下にも続きますが、私的な考えなどをあやふやな言葉で表現しているのであえて隠しておきました。読まなくても全然いいっす。


2017年3月3日金曜日

感覚を言葉に直すのは難しい

お久しぶりです。

感覚を言葉に直すのは難しい、と自分でも思います。
ディスレクシア感覚を言葉で言えるようになったのは、ディスレクシアという物事を
自分なりの知識を深めた上の話です。自覚と勉強を済ませないと話すことはなかったです。
私は『当事者感覚をよく言葉にできてる方』らしく、その反応が嬉しいので頑張れます。
私は言葉にできない時代のが圧倒的に長いのです。

昔から多少の文章が書けるからか「言う聞く」訓練が足りてない私に
『あえて書かない練習』もさせているので、現在は文面で黙る日が増えてます。

体調的に言葉がでないために、何も言えない日もあるし、
言葉はあっても体力温存のために、言わないことを選ぶこともするし。
興味があるから昔から本は読みたいし読めるようになりたいし、
体力がないと読めない現実だし、疲れやすいから一切読みたくない日もあるし。


昔からこんな日常なので、ディスレクシア話は総じて複雑というか
長くなってしまいますね。しばらくこのブログものんびりになりますw


2016年11月27日日曜日

ディスレクシアにとって「好き」が一番大事だと思う、私なりの考え。

健常者であっても「字を頑張ったら褒められる時期」は小学校入学あたりで
終わっただろうと、私は予想しています。昔から周囲を見て思っていましたが
普通の人でも「字で褒められる場面」って、あまりない気がします。
もちろん、国語の授業で音読が褒められ、読む仕事に関心を持つ経験がある人などもいるでしょうし、
習字が上手な子や字が綺麗だと褒められることはあり、
私が見て来た景色で少ないだけで、意外と多いことかもしれないですけど。

それは当たり前にできることだから、が正直な所かもしれません。
「褒めるほどのことじゃない」と。叱られも褒められもしない人のが多そうです。
ディスレクシアは、普通の人よりも強い気持ちを持って、自分で気持ちを保ちながら
字を頑張っていかないといけません。時間的にも気力的にも。
努力の日々でも褒めはなく、できなさが際立つため叱られるのが日常だと思う。
これは日本の文化ですかね。欠点なくそう運動みたいな風習は。
自分的に(これは相当がんばったぞ)と思っていても、周囲からは
「やっと当たり前のことができたのか。さっさと次にいきなさい」という感じもあり
努力自体が、軽んじて扱われがち。

2016年10月20日木曜日

日本語の事情かなー。

私としてはディスレクシアの認知度のなさがまずいと睨んでます。ちょっとずつ広まったらいいな。
英語のように、音と字の関係性?が複雑な言語の国ほど早い時期からディスレクシア研究が盛んなようです。100年以上前から識字率の高い状態が続いてる日本なのでそもそも読めない書けないって何?な発想になり、気づく機会が環境的にも少ない気がする。
あと日本語は字種が多いので挫折ポイントもたくさんある。


まず漢字。
読み自体は音訓があり、また熟語次第で音が変わることも多く字で音を探ること?が難しい??ふりがな振るだけで怒られる話とかも胸が痛みます。視覚の力が高いタイプは目で意味理解・文字の形を記憶したり模写して書き写すことはできるため学校で気づかれないことは予想できる。漢字を使った熟語・漢字そのものの意味として運用はできるが、漢字という文字(音+字という記号=文字)の運用は満足にできてないこともあり、変な認識違いも頻繁に見せると成績は上がらない。授業は日本語で進むわけですから遅れるのは当然。鬼畜仕様がデフォってお前…まじかよってやつですが、まじですよ。
私は詳しく知らない相手からは割と「真面目」で通った気がするが、家族友人に言わせると不思議で予測つかない系で…間違いも斜め上で意味わからんwwのギャップはあったと思う。意図せず困惑させてるらしく、なんかごめんw ^p^

つづいて英語。
ディスレクシアには苦手さがでる言語らしく授業はつまづく。ただ英会話は得意な子もいるため耳のいい当事者は書けないことがネックかな。聞く力が弱い場合(私はコレです)は、音韻ルールに自力で気づけず読めない書けないのスパイラルになるかも

あと、ひらがなカタカナ。
私はこれが苦手です。ルビを振る・楽譜にドレミ書き込むと返って頭が混乱することを自覚して自然とやらなくなりました。楽譜は書き込むよりも何度も音を鳴らして、指や体感覚で覚えた方が早かったんで。

……ということは楽器と同じで言葉の音の感覚も、音読(字を見て声を出す)よりも復唱(耳で聞く音を真似する)とか会話などの体感覚で行うほうが大きく身につく…?なんてことも浮かびました。耳を鍛えるという名目で。
実際はどうなんだろう。試して自分に問いかけてみるかなぁ…。

2016年10月13日木曜日

読めなさ書けなさを

何が最善なのかは今もわかりませんけど、
そう信じて結果転ぶことは恥じゃないとゆー意識は大事だと思う。
…唐突に何?って感じですかね。

ディスレクシアのアイデンティティ=字で思考しないことじゃね?と思い始めたら「当事者の幸せって…」と一瞬わからなくなった。いや、生活上「字を読める書けるスキル」は持てたほうがいい。あやふやでも自分の手で書け、読めるのは快感なんでね。ディスレクシアに関しては「字を読めない書けないことが悪という話ではない」という確認が必要かもしれない。
外国語は誰しもが読めない書けない状態で出会うのだと思うが、母国語でもそれが起きる=当事者では?字は身につけるに値するスキル。私は当事者に読み書きを諦めて欲しくないし「一緒に頑張ろう」って気持ちで記事も書いている。過去何度も諦めそうになったけど、読まなくていいとは言えないなぁ。自分でできることも快感と知ったしww(読み書きに困らない人には当たり前すぎて感じにくい喜び?)。うまく言えない書けない聞けない読めない経験が多いくせに言葉の交流も好き。私には話さない交流のほうが、自然体・簡単・快適・楽しさ・充実感などで言えば数段上であるけど、話して書いて通じる言葉の快感も捨て難い(だから絵ではなく「漫画」を描くことが私には悩ましくも楽しいのかも)。


++++
日本は、江戸時代ごろすでに識字率が超高いらしい。「読めない=バカ」が昔から強いんじゃない?そもそもディスレクシアなんて存在があり得るの?って超常現象みたく最初から斜めな捉え方をされがちです。なので私も真面目に悩みを吐露しようなんて発想はなかったな…怖かったもん。多数派(字の文化・生活様式)に寄り沿い生活している存在とディスレクシアを捉えると、読めない書けないを認めるのも一つの信頼だと思うなぁ。字に困惑してることを受け止められるだけでだいぶ満たされる。私はそれ以上は相手に求めてないなぁ…私は学歴関係ない分野で働くのが幼い頃からの目標だったし、生きるに困らん程度に読めたらいいと思ってる。
字に困るのは生活上の障害(ハンデ)なのは事実だから鍛える必要があるはずなので、仕事をするのなら字の読み書きは頑張らないとね。なので能力の会得もゆっくり頑張ろう、が私の気持ちなのですが、自分の家で過ごす時くらい「読めないことに素直な自分」を出したいのも本音なので、私は家での不安のが大きかった。

当事者は言葉や字で考えないだけであって、映像や体感や経験から考えることはちゃんとできるし、してます。映像思考な私が学校で味わい見聞きする景色のひとつひとつは「恥と思わないほうが難しい」現実で、家族と衝突してる映像記憶も多いです。記憶があいまいなのは健忘かもしれないねw 学校に遅くまで残り友人と話しながら帰り、さらに寄り道をして、帰宅してからは家出の空想を巡らすことがあった子供でした。私からみる家族はとてもありがたく怖く、家族でも共感は難しいことを教えられた。
ディスレクシアが弱点ですから、なんとかせねば…な論調は苦手ですね。そりゃあ障害になる現実も明らかだが、当事者にディスレクシアの苦手意識を植え付けたら一番ダメなやつじゃん…できることもできなくなる。行き過ぎると「こんな頭の自分は生きてもダメ」発想にならない?ちゃんと利点も伝えないとフェアじゃないし、怒るだけ怒って放置ってのは自尊心を抱けってほうが無理かな。一桁の子供相手にそんな酷な……と思う。


2016年10月5日水曜日

再確認。

自分の過去を振り返る話を人にすると…やはりというか心配されたりします。
けっこう珍しい経験が多いし、どう反応していいのか戸惑うかもしれない。
私としては、どうしていいかわからない反応というのも、素直に嬉しいので
固まってても嬉しいかな。何かを答えなくちゃいけないことではないし。

私が、自分の過去を振り返ることが多いのはきっと、教科書がないからです。
ディスレクシアって存在を知ったのも、たった数年前ですから、
知らなかった30年も、知ってからの今も、変わらず先の見えない状態ですけど、
今の時間の方が、安心が多いのは真実ですねぇ。
それっぽい特徴は生まれつきながら、自分がどう読み書きしてるのか出来てきたのか
自分でも謎で(現在も読めない書けないことも多々あるため)、自分の経験値しか
私の頼る存在がないんですよねー…。

2016年9月26日月曜日

浮遊感。

当事者なりの愚痴を言ってもいいのなら吐き出すんですけど、
どこに言えばいいのかわからずに、途方にくれることがあります。
共感がある相手となら、具体的なことも言い合えるのでしょうけど
当事者はそういう相手も友人の中から滅多に見つけることもできずにいることが
孤独な状況かもしれませんし、精神的な問題が大きい子もいるかも。
私も溜め込んでしまったかもしれませんし、どこが安定なのかがよくわかりませんが
過去を振り返ると、溜め込むことがダメなことは知ってる。
できることなら、できる限り吐き出す。
気持ちが滅入ることは、モチベーションが行動力の要の当事者ほど死活問題です。
モチベーションが肝な日常感覚だからこそ、不用意な不安で周囲を煽ることも嫌。
自分の言葉で言えない間は、言わないことを選んだのも自分の方法だったんですよ。

なので誰かに話せない状況ならせめて、別の形で消化するなり自分を癒してあげないと。
を自分に見せる目的も兼ねて、ちょろっと吐き出しておく。

2016年9月17日土曜日

印象に残ったこと。

勉強会でもじこさんが話された内容で、一番印象に残ったのはここでした。
ディスレクシアにとっての
「Learn to Read(読みを学ぶ)とRead to Learn(読んで学ぶ)」とは。
普通の人だと「字を学んでから、読んで学ぶことをする」順序らしい。
一方、私みたいなやつは字が読めません。

2016年9月16日金曜日

勉強会いってきた。

もじこ塾さん主催の保護者向け勉強会に参加させてもらってました。
とっても楽しかったです。
音韻困難にとって英語はかなりの鬼門のようですな…。


音でしか読めないのが英語なのでは?という、もじこさんの主張に当初半信半疑が多かった
(たぶん音で字が読めないので実感しにくいのが自分だと思う。おかげでフォニックスの大事さに気づくのも、ものすごく遅かった)私ですが、日に日に改まっていくようです。
昨日もじこさんに送った「勉強会お疲れ様でした〜的」なメールの中で
「英語圏のろう者さんは、筆談をどう覚えていくのか?」という私の予測も含んだ
疑問をこぼしたところ、早速もじこさんはいろいろ検索してくださったようで

まさに英語圏のろう者さんは、読みに苦労する方が多いようです…!
…いやぁ、おどろいた。
予測の外れて欲しさと「やっぱり!w」の半々でした。
でも「英語は音でしか読めない言語」という言葉の実感も沢山もらえた。
母国語の方が苦労するのなら本物でしょう。
目の見えない人の方が、音に意識が高まるためか英語が読める(?)そうです。
音で読めない書けない音韻(または聴覚)苦労する人にとっての英語学習は
想像以上に苦労すると思った方がいいわな。
構文はたぶん習ってないですが、文章のだいたいの流れは雰囲気で感じれたほうだった。
ただ、ジョリーフォニックスは存在自体、2年前くらいに知れたので
これ学校で教えとけよ…と思った。
日本語での50音的な位置付けなんだし国語ではやるんだから英語でもやってくれや。
発音記号のようなわざわざ設けた字種は覚える余裕もなかったな…触れたのも一瞬で
さっと終わってしまったし。


漢字も多い日本語だからか、筆談と視読(字を使うやりとり)を好むディスレクシア
いう矛盾の塊が私だと思います。音韻下手なのでメールは書くが
文面不得意(読み困難/ディスレクシア)もある。
この感覚が生まれてずっとある私の日常なので、会話の快感自体知らないだけかも。
コミュニケーションでの、言葉の疎通実感があまりない気がして。
結局は動物相手などにできる話さない交流や、笑顔や雰囲気を共感・共有するみたいな
字でできにくいコミュニケーションが一番安心するし、好き。
字は自分の伝達には幾分いいけど、自分では書ける割にはうまく受け取れないので…
ここも疎通実感がない。……これ、赤の他人からはわがままと言われやすいです。
一番近くにいる家族だけが、受け入れてくれる雰囲気はある。
(言い間違い多く頼りないっぽいのに、メールや置き手紙では意思もシンプル明瞭で説明も上手と言われたり、電話がいいやすいので通話好きでメール不精で、メモは滅多に書かず、出先からの電話で言伝を済ます、直に会って話す方が早いと言って、でもその間の運転の手間やロスは全く気になってないので、メールくれたらいいと遠慮される…みたいな)
これは私と父に顕著です。話し言葉と書き言葉の乖離が激しく誤解が多い。当人の姿勢は筋が通ってるんで
初見で誤解を受けやすい「だけ」で時間差でそのうち受け入れられていく。いろんなことが説明不足って感じかも。



話さないとならないことの最低限は、自分の言葉で言えるようになりつつあり、
子供時代の窮屈さより、だいぶ生きやすくなりました。
言葉(語彙)の数を覚えると、私みたいな存在でも生きやすくなれる。
苦手でも本は目を通し、音で読めなくても目で意味は知れるから、
会話下手でも会話を続け、音での言葉の引き出しも充実させていくのなら
できることは自分で増やせますし、調べ物も自分でできるようになれます。


でも、そこまでを導いてくれる存在がないのは厳しいですね。
個人の努力量だけが頼り…みたいな部分があまりにも多い気もする。
当事者の言う「学校に行っても意味がない」発言は経験が言わせていて
=学校が嫌いって意味ではないと思う。
学びたいのにできないから「学校は(私には)意味がない」の宣言と感じる。
実際自分もそうだった。友人に恵まれたし学校生活自体は楽しかったです。
でも学生としての充実とか達成感はほぼなくて、意味ないなーとも思ってた。
希望の高校に入ったくせに迷わず中退決めた辺りがもうね…。
(私に決断をさせてくれる両親に本当に感謝。私も頑張って早く安心させたい)

孤軍奮闘な経験をした自分としては、いまの私に言えそうなことは
下手でも、なるべく言葉にしたいと思っています。

すこしずつしかできないだけで、できることはあるのですから
ゆっくりいきましょう。って感じです。

2016年8月11日木曜日

音と視覚の使い分け。

音で字を書こうとすると、漢字の間違いが激増するあたりでも実感しました。
ディスレクシアの「学校の英語学習」に関しては音で書けないときついはず。
ようやくフォニックスの大事さがわかってきた。

音で書けたら、未知の単語に出会っても、ディスレクシアお得意の全体把握で
すでに文章のおおまかなビジョンは見えているし
(それまでの文章の接し方の経験値にもよりますが)単語の理解があればあるほど
その文章の信頼感?というか…文章の言っていることとか
文面への不安そのものが減って、文章に向かう自分自身の安心感もぐんぐん上がる。
…はず、です。たぶん。


ディスレクシアは
英語は、フォニックス(音)と視読(全体理解・文法、構文の理屈)を組み合わせて
単語の詰め方を進めるしかなさそう…?
日本語も、ひらがなカタカナ(音、音訓の読み方)と視読(漢字〜文法など)を
駆使して、漢字とか熟語とかの言葉の知識を入れていくしかないかな。
目で読む(書く)のと、耳で読む(書く)のを別物として訓練しないときつい?
自分の得意(目と耳)で途中まで牽引してもらって、そっから細部を詰めるしか…。


積み上げ式な勉強方法とは進め方が違うし、
前々から言うようにディスレクシアは「学校の方法が体に合わない」と思う。
当事者が学歴に納得してるなら、自主退学でも全然御の字の方と思うわ。
勉強実感も達成感も少ない私にとって、学校は友人がいたから続いた場所でしたし。